私は高校でデザイン科、美術短大で日本画を専攻しました。
32歳まで個展を中心に販売したのち折筆。
その15年後、
再度筆を執るきっかけとなった1枚がこちら。
日本画から
32歳まで個展を中心に販売したのち折筆。
その15年後、
再度筆を執るきっかけとなった1枚がこちら。
日本画から
初めて色鉛筆で描いたこの1枚は、
相棒(Buddy) の ”ぱぴ” が目に見えて老いてきたと感じた頃、「描き残したい」という衝動に突き動かされて描いたものです。
相棒(Buddy) の ”ぱぴ” が目に見えて老いてきたと感じた頃、「描き残したい」という衝動に突き動かされて描いたものです。
自画自賛ながら、この絵は今でも力強いと感じます。
この子を描きたい!という強い想いが溢れていて、15年間も折筆したとは思えません(笑)
その後、バディ画を承って10年ほど経ち、承った数は30件を超えたところですが
近年のバディ画は、
良く言えばリアルできれい。
悪く言えば
想いが減ってない?と思ったりして。
○○感、○○さなどの言葉が思わずでてしまう、
そんな表現や要素が今の絵にあるか?とか。
同じテイストの作品数が多くなるほど
”慣れ”が絵に出てきます。
良い方に作用すれば
独自の技術や抜け感の確立へ。
悪い方に作用すると
売り絵を意識し過ぎて肝心な表現が不足してしまう。
そうなっていない?
という自問自答ですね。
どのバディ画がいつ頃のもの?見分けがつくかも!
↓こちら↓
さて、
日本における20世紀までの美術は、無所属の画家と画壇画家の垣根が高く
「絵画=生涯の財産」という概念も強かった時代。
有名な公募に出品する際の応募用紙に「師事者」という欄もありました。
誰に教わったか、または教わっているかという意味です。
その頃の私は日本画でしたので、他より一層縦の繋がりが重要なジャンルでした。
画壇画家や画廊画家以外、画家と名乗るのがはばかられもした時代です。
若くて、有名美大出身でもなく、特段の師事もない。何もない駆け出し絵描きの私でしたが、だからこその反骨心があったのかもしれません。
数回ですが、働きながら描き溜めてはグループ展や個展で販売していました。
近年と違って敷居が高いうえにネットもSNSも無く、集客は貸ギャラリーの知名度と信頼度が頼みの時代に「賃貸料+α」程度に売れたことは本当に有り難かったと思います。
訳あって28歳で折筆し15年後に筆を執ったのですが、それからすぐに再出発したわけではありません。デザイン業の傍ら、リハビリのように絵画教室やデザイン専門学校の非常勤講師を始めました。バディ画の最初の数枚は無償で描かせてもらうなど、自分の画力と想いを再確認する数年が続きました。
そして、2020年に本気で再出発してからの私には
「色鉛筆画を美術の域まで押し上げたい」
という身の程知らずな目標があります。
なんだか・・・
若い頃と変わらない
成長していない気もします。
今のところ美術絵画において、色鉛筆画というジャンルはありません。
多分ですが、芸術的表現またはテイストを持つ作品が出てこないからでしょうか。
色鉛筆の超絶技法による作品も芸術的と言えるのではないかと思いますが、ジャンルとしては確立していません。
芯先を調節できるというメリットが超絶技法を生み出す半面、
芯先の太さでしか描けないというデメリットもあり、その労力は莫大です。
画家の登竜門となるような有名公募において、
作品サイズは50号<>100号が一般的な中、1枚描き上げるのに何年かかるか?ということになってしまいます。
加えて、およそスケッチや習作のための補助画材的な位置という現状もあります。
ですが、現在では美術絵画としてジャンルが確立した水彩画やパステル画も、過去は今の色鉛筆と同じく補助画材でした。
だから可能性は0ではないと思っています。
イラスト画と美術絵画の線引きはどこにあるのか?
色鉛筆は、そんなおぼろげなライン上にあって私自身も模索の日々ですが、それを超えてゆくための中心作品。実はこんなテイストです。
ご興味があればクリックしてご覧ください。
国内外の美術展に色鉛筆画として出品していて、
英国美術家協会(R.B.A)2022-2023名誉会員の賜席
2022日本の美術 審査員特別賞受賞
を頂いていますが、
図録の記載や作品に添付されるネームカードは、カテゴリー「洋画」作品名の横に(色鉛筆)です。場合によっては(パステル画)とされてしまうこともあります。
これが当たり前に「色鉛筆画」となって、
公募のジャンルにも「色鉛筆画」が加わる日を確信して。
若い頃ほど先が長くないことに焦りを募らせつつ、模索と挑戦で描いています。
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アトリエコタン|かいせ由子
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